無償の悪

松本英子。漫画、イラスト業。

すべては思い出している

okitsune2010-08-31

先日、今でているモーツーの荒呼吸の堀切児童遊園のコマを描いているとき、来た。膝を打った。


“すべては思い出している。”


発見や発想は思いつくのではない、思い出しているのだ。


最新テクノロジーも私の明日も、思い出してやっている。


この発言も考えでなく、思い出したものなのだ。


この“断定”を、今の私は残念ながら説明できない。このテの説明はいつだってホヤホヤの時しかできないのだ。
“来た”瞬間から暫くは思いがけない言葉の羅列でそれが何だか言えるだろう、しかし、時間が日が経つにつれ、その思い出しと私の間に薄い布が何枚も増えていき、あの日息をのんだ美女を今では御簾の向こうで輪郭だけしかみとめることができないような感触、ダイレクトさが遠退いてしまうのだ、断たれたように。


本当は、日が経とうが解るはずなのだ。
ただ、私が勝手にそれを絶っているだけ。“判断”でもって。



“来る”ときはどんなときかというと、“判断”から遠退いているとき、なのだ。


例えば今回児童遊園の絵を描いているとき、写真が出ているパソコン画面と掻き込む紙を往復する私がいる、ただそれだけ、他一切無し。没頭していた。つまり、それ以外の判断を“当たり前に”していなかった。


しかしそうでない時の“判断をしている”普段の私ときたら、机はぜったい机だし、私は41だし、他人と私は圧倒的にへただっている、のである。


あの時文字にでも書いておけばよかった。でもそしたら原稿落としてた。


時間が経ちすぎて、もうこれしか言えない。
最後の記憶のように、記す。

覚えている御簾の向こうの美女は他にもいろいろある。
例えば、なぜ、私は、パニック発作がなかなか治らなかったか。
それは、
たたかってしまったから。


たたかうと、同じだけの力を相手が持つのだ。

これを、誰かにわかるように納得できるように、今はもう言えない。




このテのことを、黙っていると、血の循環がにぶる。
例えでなく、実際にぶる。

なので、もういいから、たまに出す。